- 前書き
- 第一章 なぜ「禁止命令」は紙切れになるのか
- 第二章 世界の「先進的対策」は機能しているか
- 第三章 権威主義体制なら監視で防げるのか
- 第四章 「最後の手段」としての予防的拘禁という幻想
- 第五章 「逃げればいい」という残酷な発想
- 結論
前書き
3月26日の夜、池袋のポケモンセンターで、21歳のアルバイト店員の女性が亡くなってしまった。
彼女はポケモンが好きで、そこで働くのが夢だった。夢を叶えて、その場所に立っていた。それだけのことが、命取りになってしまった。
警察は動いていた。元交際相手の男は逮捕され、禁止命令を受け、「もう近づきません」と署名していた。彼女も実家に避難し、警察は定期的に確認の連絡を入れていた。職場を変えるよう助言も受けていた。できることは、していた。
それでも彼女は、帰らぬ人となってしまった。
警察の側にも、無念があるはずだ。逮捕し、命令を出し、確認を続けた。制度の範囲でできることをした上で、最悪の結果を迎えた人間の無力感は、想像するに余りある。責任を問う声があることは理解できる。しかしその問いは、「制度の中で動いた人間」ではなく、「制度そのもの」に向けられるべきではないか。
本稿が問いたいのはそこだ。——人が誰かに好かれたというだけの理由で、夢も命も奪われることを、社会は止める方法を持っているのか。
結論を先に言えば、持っていない。どの国も、いかなる体制も、今のところ持っていない。
それがどういうことなのかを、彼女への申し訳なさを抱えながら、以下に書く。
第一章 なぜ「禁止命令」は紙切れになるのか
法律はどのように機能するか。それは「やってはいけないことを定め、違反した場合に罰則を科す」という仕組みである。当たり前のことのようだが、この構造そのものが、ストーカー対策における根本的な限界を内包している。
禁止命令は「近づいてはいけない」というルールだ。しかしそのルールが抑止力として機能するのは、当人が「捕まりたくない」「罰せられたくない」という合理的な計算をしている場合に限られる。今回の加害者のように、自分の命すら厭わない状態にある人間にとって、罰則は意味を持たない。署名した「もう近づきません」という言葉は、守る気のある人間にとってのみ有効な約束だった。
さらに構造的な問題がある。違反が発覚した時点で、すでに被害者への接触は起きている。禁止命令の「違反」とは、被害者が再び危険にさらされた後にしか確認できないのだ。これは制度設計の欠陥ではなく、事後対応という設計思想の限界そのものである。
自由主義社会は、「まだ何もしていない人間を拘束できない」という原則の上に成り立っている。これは人権保障の根幹であり、容易に手放せるものではない。しかしその原則は同時に、「凶行の意志を持ちながら表面上は何もしていない人間」を物理的に止める手段を、社会から奪ってもいる。
日本のストーカー規制法は2000年の制定以来、数度の改正を重ねてきた。メール、SNS、GPS端末による位置情報追跡と、時代に合わせて禁止行為の対象を拡大してきた努力は認めるべきだ。しかし法律が「できること」の範囲を広げても、「やる気のある加害者を事前に物理的に止める」という最も本質的な課題は、依然として手つかずのまま残っている。
第二章 世界の「先進的対策」は機能しているか
では他国ではどうか。日本より進んでいる国の対策を見れば、何か参考になるものがあるのではないか。
率直に言えば、失望的な結果が待っている。
英国では2014年に「Clare's Law」が施行された。交際相手の暴力歴を警察に照会できる制度で、2023年には年間4万5,000件以上が利用されるに至った。しかしリヴァプール大学の施行10年レビューは、DV殺人件数の減少との因果関係は確認されていないと結論づけている。「知る権利」を与えることと、暴力を止めることは、別の話なのだ。
フランスは2019年のDV対策国民会議を契機に大規模な改革を実施し、加害者へのGPS電子ブレスレット装着制度を法制化した。しかし2021年中頃の時点で実際に装着されていたのは全国でわずか78台だった。法律が存在することと、機能することの間には、巨大な溝がある。
スペインは世界で最も先進的とされるAIリスク評価システム「VioGén」を2007年から運用している。60万件以上の事案を処理してきたこのシステムの評価は、しかし衝撃的だ。DV殺人被害者のうち56%が、事前に「無視できる」または「低い」リスクと分類されていた。命を落とした人の半数以上が、システム上は「大丈夫」とされていたのである。
米国のGPS電子監視は一定の再犯抑止効果が確認されており、最も実証的な根拠を持つ対策の一つだ。しかしこれも「抑止が効く人間」に対してしか機能しない。
唯一、比較的有望な事例として韓国がある。2023年にAI搭載スマートCCTVを高リスクのストーキング被害者1,200人の自宅周辺に設置し、殺人・暴行・誘拐を含む複数の重大犯罪を防止したと報告されている。ただしこれは被害者側の環境を監視するものであり、加害者を事前に止めるものではない。また効果の報告は政府機関による自己評価であり、独立した第三者検証はまだ十分ではない。さらに同じ韓国で、保護措置下に置かれた被害者の犯罪被害率が2018〜2020年平均の7%から2023年には21%に急増しているという数字もある。テクノロジーが進んでも、全体としての保護が追いついていない現実は変わらない。
加害者への治療プログラムはどうか。国際的な学術レビューの結論は一致している——効果サイズは「小」であり、参加者の40〜60%が途中で脱落する。脱落者の再犯率は修了者の約2倍だ。そして最も問題なのは、今回のケースのように「治療を拒否する自由」が加害者にある場合、そもそも入り口にすら立てないことである。
第三章 権威主義体制なら監視で防げるのか
ここで一つの反論が浮かぶ。「自由主義社会だから限界があるのであって、強権的な監視体制を持つ国なら違うのではないか」という直感だ。
中国は7億台以上の監視カメラを持ち、顔認識技術で国民の動線を追跡できる。社会信用システムも存在する。これだけのインフラがあれば、ストーカーを追跡して被害者を守ることは技術的には可能ではないか。
現実はそうなっていない。
中国の監視システムがDVやストーカー被害者の保護に活用された事例は、研究文献上ほぼ確認されていない。既婚女性の4人に1人がDVを経験しているとされ、2016年に全国2,000か所以上のシェルターに入所したのはわずか149人だった。圧倒的な監視能力は、被害者の保護には向けられていない。
ロシアに至っては2017年、家庭内暴行(初回)を事実上「非犯罪化」した。DVを重罪から行政違反に格下げする法律が、圧倒的多数の賛成で可決されたのである。権威主義体制であることは、被害者保護の強化を意味しなかった。
イランは13年以上にわたってDV法の制定を試みたが、2025年についに頓挫した。トルコは2011年にイスタンブール条約を世界で最初に批准しながら、2021年に離脱し、以降フェミサイド件数は増加を続けている。
なぜ強大な監視能力を持ちながら、それを被害者保護に使わないのか。
これは怠慢ではない。権威主義体制が最も恐れるのは、体制への反乱や不安定化であり、DVやストーカーは体制を脅かさない。それどころか、家庭内で男性が女性を支配している社会は、国家権力が国民を支配しやすい社会と構造的に親和している。家父長制と権威主義は、同じ支配論理の異なるスケールに過ぎないのだ。
監視能力を被害者保護に使わないのは、使う動機が構造的にないからである。
第四章 「最後の手段」としての予防的拘禁という幻想
それならば、と思う人もいるだろう。「危険だと分かった時点で、拘束してしまえばいいのではないか」という発想だ。
この考えを突き詰めると、連鎖的な矛盾に突き当たる。
まず「誰が危険と判定するか」という問題がある。凶行前の段階では、ストーカーと「重度の片思い」の境界は法的に曖昧だ。判定権限を持つ機関が恣意的に運用すれば、対象はいくらでも拡大できる。
次に「いつ釈放するか」という問題がある。ストーカー的執着に「完治」という概念は医学的に確立していない。釈放判定を下した医師が、後に再犯が起きた場合に責任を問われる構造になれば、誰も釈放判定を出さなくなる。それは事実上の終身拘禁だ。
「危険な感情・思想を理由に拘束する」という発想は、自由主義社会が最も警戒する論理でもある。これは歴史上、実際に運用された前例がある。旧ソ連は「緩徐進行性統合失調症」という診断概念を使い、体制を批判する者を「精神的に異常」として精神病院に強制収容した。政治犯を裁判なしに不定期拘禁するためのシステムとして、精神医学が利用されたのである。この慣行は1983年に国際精神医学会からソ連精神医学会が除名されるほどの国際的批判を受け、ソ連崩壊後にロシア精神医学会自身が「人権侵害であった」と認めた。
善意で設計された制度が、政治的に悪用される——これはSF的な懸念ではなく、20世紀に実際に起きたことだ。予防的拘禁は問題を解決しない。問題を別の形の人権侵害に置き換えるだけである。
第五章 「逃げればいい」という残酷な発想
こうした議論が進むと、必ずといっていいほど出てくる声がある。「職場を変えればよかったのでは」「引っ越せばよかったのでは」という声だ。
今回の被害者は警察から勤務先の変更を助言されていた。それでも彼女は「ポケモンが好きで、ここで働くのが夢だったので変えたくない」と言い、働き続けた。
この判断を責めることは、できない。
職場を変えることは、加害者が「勝つ」ことを意味する。引っ越すことも、人間関係を断つことも、すべて「被害者が自分の生活を削ること」だ。逃げることは安全を手に入れることではなく、すでに人生の一部を失うことである。
現行のストーカー対策は、構造的に被害者に「逃げる」ことを求めている。しかしその逃げ道を整備することに公費が使われることはあっても、「逃げなくていい状態」を作ることは誰も実現できていない。安全の負担が加害者ではなく被害者に押し付けられている——それが現行制度の本質的な歪みだ。
彼女が「夢の職場を変えたくない」と言ったのは、その歪みへの、ごく自然な抵抗だったとも言える。そして結果として、命と職場を天秤にかけた形になってしまったが、その天秤を彼女の前に置いたのは加害者であり、それを許してしまったのは制度の限界だった。
結論
ここまで書いてきて、一つの結論に行き着く。
ストーカーによる凶行を国家的な制度で完全に防ぐ方法は、現時点では存在しない。自由主義社会は個人の自由と予防的介入のジレンマを解消できず、権威主義社会は監視能力を被害者保護に使う動機を持たない。加害者治療は効果が限定的で、予防的拘禁は別の人権侵害を生む。被害者に逃げることを求め続けることは、暴力の負担を被害者に転嫁することだ。
社会にできることは精々、発生確率を「多少」下げることと、被害者の逃げ道を「多少」広げることだけである。
それは今回のような個別の悲劇には、何の慰めにもならない。
ただ一つ言えることがある。「解けたふりをして予算を使い続けること」は、「解けない問題だと正直に認めること」より、ずっと罪深い。対策が機能していると見せかけながら、また次の被害者が出るのを待つ——そのサイクルを続けることへの批判は、彼女の犠牲の後に少なくとも許されるべきだと思う。
本当の問いはおそらく、制度の上流にある。なぜ交際の解消を「自己の消滅」として処理してしまう人間が生まれるのか。孤立、承認欲求、関係への依存——それは制度ではなく文化・教育・共同体の問題であり、仮に解決策があるとしても数十年単位のタイムラグがある。
次の事件など、あってはならない。しかしおそらく、また同じ問いが繰り返されてしまうだろう。「なぜ防げなかったのか」と。その問いに、今の社会はまだ答えを持っていない。