李在明政権はなぜ実用外交を展開できるのか——冷戦後日韓関係の変遷と未来への展望
2025年6月、韓国に李在明(イ・ジェミョン)政権が誕生した。かつて反日的なスタンスで知られた李大統領だが、現在は「実用外交」を掲げ、日韓関係の改善に向けた現実的なアプローチを取っている。なぜこのような転換が可能になったのか。その答えは、韓国の反日外交が辿った興隆と挫折の物語の中にある。
第一章:反日外交の黄金時代(2000年代〜2010年代)
政治的万能薬としての反日
2000年代から2010年代にかけて、韓国政治において「反日カード」は極めて有効な政治手段として機能していた。教科書問題、靖国参拝問題、慰安婦問題、竹島・独島問題——これらの歴史・領土問題を提起するたびに、韓国の世論は沸騰し、政権の支持率は上昇した。
時の小泉純一郎首相の靖国神社参拝に激しく反発した盧武鉉政権は「歴史問題の決着なくして未来はない」を掲げ、対日強硬姿勢を鮮明にした。李明博大統領の天皇謝罪要求と竹島上陸(2012年)は支持率低迷に苦しむ政権末期の起死回生策だった。朴槿恵政権に至っては、中国との蜜月関係を背景に「歴史を直視しない日本とは首脳会談もしない」という徹底した対日冷遇政策を展開した。
反日外交が成功した理由
この時期、反日外交が政治的に成功した背景には複数の要因があった。
第一に、韓国社会の民主化過程だ。権威主義体制下で抑圧されていた反日感情が、民主化とともに噴出した。政治家にとって反日は「民主化の成果」として正当化しやすい政策だった。
第二に、経済成長による自信だ。「漢江の奇跡」を経て先進国入りを果たした韓国は、もはや日本に経済的に依存する必要がないと考えた。「対等な立場から歴史問題を追及できる」という自信が反日外交を支えた。
第三に、国際環境の変化だ。中国の台頭により韓国は外交的選択肢を増やし、「日本一辺倒」から脱却する余地が生まれた。特に朴槿恵政権期には、中国との関係強化を梃子に対日圧力をかける戦略が取られた。
第二章:転換点としての文在寅政権の挫折(2017年〜2022年)
反日外交の頂点
文在寅政権期、韓国の反日外交は歴史上の頂点に達した。2015年の慰安婦合意を事実上破棄し、徴用工問題では韓国大法院判決を盾に日本企業への賠償を要求。レーダー照射事件、ホワイト国除外問題を経て、ついには日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄を通告するまでに至った。
文大統領自身の信念もあったが、この強硬姿勢は国内政治的にも計算されたものだった。北朝鮮融和政策への批判をかわし、保守派の攻撃から身を守る「政治的な盾」として反日カードは機能していた。
予期せぬ代償
米国からの信頼失墜が最も深刻だった。GSOMIA破棄通告は、北朝鮮・中国への対処で日米韓連携を重視する米国を激怒させた。トランプ政権下でも「同盟軽視」として厳しく叱責され、韓国は「アジア戦略の穴」として認識されるようになった。
経済的損失も無視できなかった。日韓貿易の萎縮、観光産業への打撃、サプライチェーンの混乱など、実体経済への悪影響が顕在化した。特に日本の素材・部品・装置への依存度が高い韓国製造業は深刻な影響を受けた。
外交的孤立も進んだ。歴史問題での対立が激化する中、韓国は地域の多国間協力から取り残される場面が増えた。TPPへの参加議論も、日韓関係の悪化で事実上棚上げされた。
国民の学習効果
さらに重要だったのは、韓国国民の「学習効果」だった。反日外交を続けても生活は改善されず、むしろ経済的不利益が生じることを多くの国民が実感した。特に若い世代を中心に「反日よりも実利」を求める声が高まっていった。
曺国スキャンダルなどで文在寅政権への不信も高まる中、「感情的な外交よりも現実的な政策を」という世論が形成された。これは日本の民主党政権崩壊後の日本世論と類似の現象だった。
第三章:李在明政権の現実主義——なぜ実用外交が可能になったか
地政学的環境の激変
李在明政権が実用外交を展開できる最大の要因は、韓国を取り巻く地政学的環境の激変にある。
北朝鮮とロシアの軍事協力深化は韓国にとって現実的脅威となった。北朝鮮がウクライナ戦争にロシア兵力を派遣し、見返りに先端軍事技術を獲得する構図は、朝鮮半島の軍事バランスを根本的に変える可能性がある。
中国の地域覇権への野心も露骨になった。台湾海峡の緊張、南シナ海での実力行使、韓国への経済的圧力など、中国は「善隣友好」の仮面を脱ぎ捨てつつある。
この三重苦(北朝鮮・ロシア・中国)の前に、日本との歴史問題で対立している余裕は韓国にはない。李大統領が「現実の脅威」に集中するため、「過去の恨み」を棚上げすることを選択したのは当然の帰結だった。
過去の合意という「外交的な盾」
李在明政権のもう一つの武器は、過去の政権による日本との合意を「外交的な盾」として活用する戦略だ。
2015年の慰安婦合意(朴槿恵・安倍政権間)、2023年の徴用工問題解決策(尹錫悦政権による第三者弁済方式)などの既存合意を蒸し返すことは、「国際約束の一方的破棄」として深刻な外交問題に発展するリスクがある。
李在明政権はこの構図を巧妙に利用している。国内の反日勢力に対しては「国際的な約束は守らなければならない」という建前を使って歴史問題での攻撃を封じ込み、日本に対しては「合意は尊重するが、新たな協力領域も開拓したい」として経済・安全保障分野での協力拡大を提案する。
この戦略により、歴史問題での無用な衝突を避けながら、両国の国益に資する実利外交を展開できる政治的空間が創出されている。
経済的現実への直面
尹錫悦前政権の非常戒厳宣言とその後の政治混乱により、韓国経済は深刻な低迷に陥っている。物価高騰、雇用不安、住宅価格高騰など山積する経済課題の解決が急務となっている。
特に半導体・バッテリー・造船業など韓国の主力産業は、日本の素材・部品・装置技術との連携なしには国際競争力を維持できない。中国との経済安保リスクが高まる中、信頼できるパートナーとしての日本の価値は一層高まっている。
李在明大統領は「本当の経済成長」を公約に掲げており、そのためには感情よりも実利を優先する外交政策が不可欠だった。
党内・世論の変化
李在明氏が属する「共に民主党」内部でも、反日一辺倒への反省が進んでいる。文在寅政権期の外交的孤立を目の当たりにした党内の現実派は、「国益を損なう感情外交」への警戒感を強めている。
韓国世論も変化した。特に若い世代を中心に、「反日しても生活は良くならない」「現実的な協力が必要」という意識が広まっている。K-POPや日本のコンテンツを通じた文化交流の活発化も、両国関係正常化への土壌を形成している。
第四章:新時代の日韓関係——成熟したパートナーシップへ
歴史問題の「封じ込め」
李在明政権下の日韓関係では、歴史問題の政治的影響力が大幅に削がれつつある。慰安婦・徴用工問題は既存合意により外交的に決着済みとなり、竹島問題も現状維持が基本線となっている。
重要なのは、これらの問題が完全に消失するわけではなく、「記憶として残るが、政治を支配しない」状態への移行が進んでいることだ。両国政府は歴史問題を政治利用することの弊害を学び、より慎重なアプローチを取るようになった。
安全保障における準同盟化
現在の日韓関係で最も注目すべきは、米国を軸とした事実上の「準同盟」関係への発展だ。北朝鮮の核・ミサイル脅威に対する情報共有、中国の海洋進出への共同対処、サイバーセキュリティでの連携など、安全保障分野での協力は不可逆的な段階に達している。
李在明大統領も就任演説で「堅固な米韓同盟を土台に日米韓協力を強固にする」と明言しており、この三角協力は政権交代を超えた戦略的基盤となりつつある。
経済安保での相互依存深化
半導体・バッテリー・エネルギーなど先端技術分野での日韓協力は、両国にとって死活的に重要な存在となっている。韓国の「K-バッテリー」と日本の材料技術、韓国のメモリ半導体と日本の製造装置、韓国の造船業と日本の海運業など、補完関係は多岐にわたる。
これらの協力関係は、一時的な政治的対立を超越した強固な利益共同体を形成している。中国からのサプライチェーン分離が進む中、日韓の経済安保協力は一層重要性を増している。
制度化された協力の拡大
新時代の日韓関係は、感情に左右される「政冷経熱」から、制度に基づく「政温経熱」への転換を遂げている。首脳会談の定例化、外務・防衛担当閣僚協議(2+2)の活用、議員外交の活発化など、多層的な協力体制が構築されつつある。
文化・学術・民間交流も急速に回復している。K-POPブーム、日韓合作映画・ドラマ、学術研究での協力、企業間提携など、「民間が政治を支える」構造が定着しつつある。
グローバル・パートナーシップの発展
気候変動対策、デジタル変革、宇宙開発など、21世紀的な地球規模課題での協力も拡大している。また、東南アジア・アフリカ・中南米でのインフラ協力、人道支援での連携など、第三国での協力も活発化している。
両国は「アジアのデモクラシー」として、権威主義の拡散に対抗する価値外交でも連携を深めている。これは単なる二国間関係を超えた、グローバルな責任の共有を意味している。
「永遠の贖罪」から「対等なパートナーシップ」へ
李在明政権の実用外交は、韓国政治の根本的変化を象徴している。反日カードの政治的有効性の消失、地政学的環境の激変、経済的現実への直面——これらの要因が複合的に作用し、感情ではなく利益に基づく外交政策を可能にしている。
この変化は日本にとっても重要な意味を持つ。第二次安倍政権以降、日本は「永遠の贖罪」から解放され、韓国に対して原則を堅持する姿勢を確立してきた。慰安婦合意(2015年)、徴用工問題での立場堅持、そして現在の関係改善——これらは日本の対韓外交の成熟を示している。
日韓関係は今、歴史的転換点にある。「過去に縛られる関係」から「未来を共に築く現実的パートナーシップ」へ。感情的対立から制度化された協力へ。そして何より、「加害者と被害者」という固定的関係から、「対等なパートナー」としての新たな関係へ。
李在明大統領の実用外交が成功すれば、東アジアの地政学的バランスは大きく変わるだろう。中国・北朝鮮・ロシアという権威主義陣営に対峙する民主主義陣営の結束は、この地域の平和と繁栄の基盤となるはずだ。
歴史の重荷を完全に降ろすことはできない。しかし、その重荷に押しつぶされることなく、未来に向かって歩み続けることは可能である。李在明政権の実用外交は、その可能性を具現化する試みなのかもしれない。
本記事は2025年8月時点の情勢分析に基づいて作成されました。